Masuk「――まず、わたくしの目的は『穏便な婚約破棄』ですわ」
月明かり差し込む、夜の自室。
絨毯には、イヅルが集めてきた悪女・毒婦に関する書物が、戦利品のように積み上げられていた。 歴史書から、大衆向けのけばけばしいゴシップ小説まで、なかなかに壮観な眺めね。「はあ、穏便ですか」
ため息交じりに、イヅルが顎先をさする。あ、さてはわたくしを信じてないな?
「ところで、ビーチェお嬢様。これらの集めた書籍には、いったいどのような意味が?」
「参考書よ、参考書! 何事も基礎研究が大切なのよ、基礎が。わかる?」 「……お嬢様の尽きることなき探究心は、素晴らしい長所でございますね」 「ふふん、そうでしょ?」たまに、素直に褒めてくれるわね。我が専属執事は。生暖かい目に感じるのは、きっと気のせいよね。
わたくしは、ぼんやりとした魔力灯を頼りに、羽ペンを走らせる。びっしりと書き込まれた|反撃計画《プラン》。 それをイヅルに、意気揚々とプレゼンテーションしたの。「王家に“ビーチェでは到底、王太子妃は務まらない”と心の底から絶望させ、あちらから婚約破棄を申し出させる。これが最も穏便で、理想的な結末ですわ」
「ふむ。面白いアプローチですが、両派閥を争わせたい王家が、そう易々とお嬢様を手放すでしょうか」 「だからこそ、継続不可能なほどのスキャンダルを捏造するのよ! 品行方正を重んじる王家が眉をひそめるような、ね。奔放で、制御不能な女だと誤解させればいい! 爛れ乱れる不良娘とかね、手段はいくらでもあるわ!」「制御不能なのは元々では? で、さらに爛れ乱れる、と。なるほど」という心ない声が返ってくるけど、無視よ、無視!
「標的にしたいのは、もちろんバージル殿下ご本人。けれど、あの方はすでにわたくしを『シャーデフロイ家の腹黒い女』という色眼鏡で見ていらっしゃるわ」
「はい。言ってしまえば、ビーチェお嬢様への印象どうこうよりも、我が家の評判の問題でしたね」 「そうなのよねえ。……お父様も別に悪い人じゃないのにね?」ふと漏れた本音に、イヅルは何も答えなかった。ただ、静かにそこにいるだけ。そして、そのまま話を逸らす。
「あえて、言葉にすれば。殿下からの、我が家への評価は……そうですね。『糞尿まき散らすハーピィの巣窟』あたりかと」
「あなた、本当に我が家に忠誠心あるの!?」思わず羽ペンを置いて、つっこんでしまった。
でも、イヅルは「おっと失敬」と肩をすくめているだけ。絶対に反省なんてしてない!「もうっ! つまり、下手に策を弄しても『ほら見ろ、やはり悪女だった』と警戒心を強めるだけ。これ以上ないほど冷え切った関係では、効果的な一打を打てないのよ」
「流石でございます、バージル殿下の複雑な男心をすでにお見通しとは」子供をあやす態度のイヅルにむっとしながら、わたくしは構わず続けたわ。
「そこで逆転の発想よ。もう、バージル殿下の感情を天元突破させ、我慢の限界を超えさせてしまったらどうかしら」
「……と、申しますと?」 「|笑わずの王子《アイスマン》の鉄面皮が維持できなくらい、死ぬほど嫌われちゃえば、衝動的に婚約破棄を叩きつけてくるかもしれないじゃない?」 「王族教育受けた殿下を追い詰めて、そこまでさせられるなら、いっそたいしたものですね?」なんで、そこで疑問形なのよ。そろそろ、本気でぶつわよ。
「まあ、確かに大抵の手段では通用しないわね。だから、視点を変えます! 殿下本人を直接狙うのではなく、彼が『守りたい、大切にしているもの』を脅かすことで、ポーカーフェイスの裏にある本心を引きずり出すの!」
イヅルの黒曜石の瞳が、興味深そうにすっと細められた。
「殿下が大切にしているもの、ですか」
「そう! バージル殿下が何よりも大切にしているもの。それは彼自身の正義、王族としての権威。そして、もう一つ!」わたくしは頭に焼き付いて離れない、あの日の光景をなぞるように言った。あの、胸がちくりと痛んだ一枚絵を。
「おそらくは。きっと、あのルチア・ファン・ギャニミード男爵令嬢ですわ」
「ほほう。……例の少女ですね」 「あの方は、まるで陽だまりのような方。平民出身でありながら、その天真爛漫さで、殿下の心をいとも容易く解かしてしまった」 「その上、神職である家柄として、特殊な立ち位置でもいらっしゃいますね」 「ええ。きっと彼女は、貴族社会のしがらみから解放される唯一の癒やし、侵されてはならない聖域のはず。だからこそ、その聖域を穢す存在は、何よりも許しがたい。そうは思いませんこと?」 「―――素晴らしい」賞賛に、ぞくりとするほどの感嘆の色が混じる。
「ええ、実に素晴らしい脚本です、ビーチェお嬢様。では、具体的に、その男爵令嬢……聖域の乙女を、どのように“穢して”差し上げるおつもりで?」
「ふふん。よくぞ聞いてくれたわ!」わたくしは計画書の第一項を、ペン先でトントンと叩いた。
「作戦名『麗しの白百合に、消えぬ染みを』。決行は三日後よっ」
悪役を望まれるなら、とことん演じて差し上げますわ!
すると、イヅルは珍しく、ぽかんとした顔でわたくしを眺めた。「え? ……穢す、とは、染みのことでございますか?」
「当たり前でしょ」逆に、他に何があると思ったのかしら。この腹黒執事は。
「ですが……なにかの偶然という可能性はありませんか。たまたま本が落ちて、誰かが並び替えたとか。そう、それこそイタズラ、とか……」「信じたくないのはよくわかる。だが、ありえん。この状況下で、そんなイタズラをする馬鹿がどこにいる。私が、襲撃の報を聞いて、席を外した、ほんの僅かな間だぞ」「そう、ですね。……確かにタイミング的に、イタズラはありえない。しかし、だとすると……」 ローラントの顔が、絶望に染まる。 そうだ。即席の思い付きでは、ありえない。私の本棚に、どんな本があるかを把握してなければ、こんな真似は早々できんのだ。 故に、より恐ろしさが際立つ。「ですが、殿下。もしこれが、黒幕からのメッセージだとしたら、あまりに不可解です。なぜ、自分たちの標的を、わざわざ教えるような真似を?」「……わからん。だからこそ、不気味なのだ」 とんだ挑戦状だ。資料を焼いたうえで、この私に向かって、堂々とベアトリーチェ嬢を狙っていると、アピールしてくるとは。 もはや、「いつでも、貴様の身の回りの誰かを手に掛けられるぞ」と脅迫されているに等しい。頭に浮かぶ……大切な人々。「クク、ククク……。面白い」 不意に、乾いた笑いが、私の口から漏れた。 ああ、怖くてたまらない。怖いさ、たまらないとも! だからこそ、“僕”はシュタウフェン王家の次期後継者として、強く、振る舞わねばならなかった。「受けて立つぞ、正体不明の黒幕よ。このバージル・ファン・シュタウフェンが、この程度の揺さぶりで臆するとでも、思っているのならば――」 “僕”は自らを奮い立たせるように、そう宣言した。 それこそが、皆が、この国の未来を担う者に、求める姿なのだから。「必ず、後悔させてやるっ!」 臆病者には、誰も付いてこない。だから、“
「してやられた、な」 されど、そう悲観することもないかもしれない。 ともすれば、これは私が真実に近づいている証左なのではないだろうか。 少なくとも、“黒幕”はそう恐れた。私という男を。そう考えれば、この胸の屈辱も、少しは――。「……などと、思わねばやってられんな」 虚勢だ。吐くのは、自嘲のため息。いずれにせよ、ここにあった事件の調査資料は、灰燼に帰した。 まさしく、犯人の思い通りになってしまった訳だ。(ならば、シャーデフロイ邸への襲撃は、陽動だったのだろうか?) いや、待て。犯人のもう一方の目的は、この私自身の暗殺だったようだ。 ならば、奴らにとって、“標的の王太子バージル”がここにいなかったことは、予想外だったのではないか。 そうだ。だとしたら……、まだ、“僕”は負けてない。 思考が、すぅっとまとまり――ふと、見上げたそこには、本棚が。「バージル殿下?」 動きを止めた私に、ローラントが心配そうに声をかけた。 だが、今はそれどころではない。本棚の配列が、変わっている。太陽への道、通商勅令、ある若き騎士の迷い、聖オットーの双王国年代記……。「……ローラント」「はっ」「私に、シャーデフロイ家襲撃の報を知らせ、この研究室から連れ出したのは、お前だったな?」「はい、もちろんでございます! ……それがなにか?」「ならば、信じるとしよう」 おそらく、ローラントは“白”だ。彼の忠誠心は疑いようもないだろう。 だが、他の騎士は? このアカデミーにいる、ありとあらゆる人間は?「バージル殿下。いったい、なにを……」「静かにしろ。壁に耳あり、だ」 ただならぬ気配を感じ取ったのか、ローラントは息
私は、この不吉な艶やかな黒に、目を細めた。紫がかった妖艶な色彩に。「これも、あえて残された、のか?」「……おそらくは」 もはや、不可視の戦争。そんな渦中に、知らぬうちに巻き込まれている。 どんな仮説を立てても、決定的な証拠に、何も至らない。「殿下。他の場所でも、同様の戦闘痕が、複数発見されております。この痕跡は、道しるべのように……王立アカデミーの方角へと、続いておりまして」「なんだと?」 ますます、面倒なことになった。 我々は、何者かの手によって、誘われているのだ。 あらゆる情報が、先程まで我々がいたはずの、あの場所へと、導いていく。「……行くぞ」 辿りついた図書館。司書に確認を取れば、判明する不自然な|魔術警報《セキュリティ》解除。 それは己のいた区画、第7書庫。そこを担当しているはずの、司書補ルチア。 まさか、と思った。いるかもしれない。険悪な関係の……我が婚約者が。なぜかそんな予感がした。「――二人とも、無事かっ!」 急いだ先に広がっていたのは、信じがたい光景。 床に転がる、さらなる賊、四人。 そして。「ベアトリーチェ……嬢。それに、ルチア」 目に飛び込んだのは、およそ現実とは思えないちぐはぐな絵図。 片や、涙目でぶるぶる震え、立ちすくむ令嬢。 片や、頬に血糊をつけたまま、穏やかに微笑む、もう一人の令嬢。「これは、一体、何があったんだ?」 思わず、唖然としながら投げかけた問い。 二人は、顔を見合わせると、こう答えた。「「そこに悪い人がいましたので……?」」 まるで示し合わせたような言い訳に、覚えた眩暈。 ――これはきっと、疲労が見せた幻覚に違いない。***
あれは、嘘偽りなき真実なのだろう。 私はそう思った。 “一人の父親として、ただただ娘の身を案じております” 走り書きされた文字には、父親の悲痛な思いが滲んでいたように見えた。 だからこそ、だ。シャーデフロイ伯爵邸に駆けつけた時、目の前に広がる光景に、己の思考が凍りいたのは。 門は、半壊。巨大な獣がこじ開けたかのように、へしゃげて。 かつて、寸分の狂いもなく整えられていた庭園は、いくつものブーツ跡で踏み荒らされ、魔術によって焼け焦げていた芝生が異臭を放つ。 ――戦闘は、あったのだ。間違いなく。それも熾烈なものが。 甲冑を着た衛兵たちが、負傷した仲間を運び出し、怒号に似た声を張り上げる。 だというのに。「これはこれは、殿下。……こんな夜分に、お早いことで」 館の大扉から、悠然と現れた当主ウェルギリ伯は。 今しがた、極上の一瓶を開けたところだと言いたげに、ブランデーグラスをゆるり揺らしていた。 背後では、メイドたちが、ガラス片を手慣れた様子で片付けている。そう、淡々と。日常の一環のように。 箒が掃く、サッサッ、という乾いた音。(伯どころか。使用人たちの、この落ち着きよう。この異常事態に、まるで動揺していない。……これは、なんだ?) 違和感を飲みこんで、私は尋ねた。「……どういうことだ、伯爵。一体、何があった」「なあに、文でお知らせしたとおりです。小うるさい羽虫が、騒いでいただけのこと。既に、叩き潰しましたゆえ、御安心召されよ」「だが、そなたからの報せでは……令嬢がっ!」「おお、左様。それについては、誠に、そう、誠に困っておりましてな。いやはや、どうしたものか、と」 そこにいるのは、愛娘の危機に動転する父親では、断じてなかった。 平時と何ら変わらぬ、悠然とした『翼ある蛇』……父王が警戒して止まぬ、辺境の
ガタン、ゴトン。石畳を駆ける車輪の音が、やけに頭に響くわ。「……で?」 向かいの席に座る、我が腹黒執事に向かって、わたくしは非難の声を上げた。「で、とおっしゃいますと?」「どこで油を売っていたのよっ! わたくしが、どれだけ大変な目に遭ったと思っているの!? 危うく、人生が、終わるところでしたのよ!?」「逆に、こちらもお聞きしたいのですが。待つようお伝えしたのに、なぜ、殿下の研究室から、わざわざご移動しようと?」 ……沈黙。 あ、これ、知ってるわ。わたくしの軽率な行動を、ねちねちと責められるパターンのやつだわ、あわわわわ!?「あー。……まあ、今回は、特別に、大目に見て差し上げてもよくってよ?」「まさかお嬢様は“待て”すら出来ない、やんちゃなお子ちゃまでいらっしゃいましたか?」「違うもん! あなたが、あまりに遅かったのが悪いんだもん!」「結果として。お嬢様の行動は、王立アカデミー附属図書館の|魔術警報《セキュリティ》に穴を開けたと同義なのですが、ご自覚は?」「はうっ!?」 そうなのよ。わたくし、隠し通路から、脱出しようとした訳だけれど……。 なぜか、区画の警備魔術が、一時的に、ごっそり解除されてしまっていたんですって!「あれって……やっぱり。わたくしの、せい、かしら?」「他にあるわけがないでしょう。おそらくは、王族の緊急避難通路を、不用意に起動した不具合でございますね」 スパッと言い切られた。うぐぐぐっ。「襲撃犯たちは、お嬢様の作った穴をまんまと利用し、殿下の研究室へ辿り着いた、と。よくぞまあ、侵入者を“手招き”しておいて、皆様にバレずに済んだものですね?」「いやぁあああっ! 言わないで、イヅル! なにも聞きたくないぃぃぃっ!」 ああっ、すべてが――わたくしのやらかしっ! 幸い警備体制を解除
ルチアは、スティックに付着した血を、悪漢の服で雑に拭うと。 何事もなかったかのように、カチリ。それを腰に差した“杖の隣”へと、何事もなかったかのように、収納した。 杖との二本差し。つまり、あれは……折り畳み式の、対人魔術兵装。「ベアトリーチェ様! お怪我は、ありませんでしたか」「ひゃ、ひゃい! わ、わたくしは、だ、大丈夫ですけれど!?」 ぱたぱたと駆け寄ってくるルチア。 わたくしは恐怖のあまり、後ずさることしかできない。 だって、怖い! この子、どう考えても、わたくしより、あの魔獣より、ずっと、ずっと、怖い!?「え、でも。顔色悪いですよ? 本当に大丈夫ですか?」 わたくしの手を取り、心配そうに、顔を覗き込んできた。どの口が言ってるのかしら、あなたは?! でも、こくこくと、頷くことしかできなかった。「ふぅー、結構、いい運動になりましたね! あ、そうだ。司書さんに報告しなきゃ」 「うぎゃー」とさらに、どこからか新たな悲鳴が聞こえてくる。バージル殿下の研究室からだった。「あー。まだ、侵入者さんいたんですね。……一度、|魔術警報《セキュリティ》に検知されたら、図書館に住み着いている“知識のゴースト”さんたちに、魂吸われちゃうのに。あーあ、かわいそう」「かわいそうって!? この図書館、危険地帯過ぎませんこと!?」「そりゃ、国家の重要研究機関に付属する、機密書庫なんですから」 当り前でしょう、とルチアは首を傾げる。 わたくし、なんて恐ろしいところに忍び込んでいたのかしら。色んな意味での恐怖が、今さら、どっと伸し掛かってくる。「でも。ちゃんと、お約束、果たせてよかったです。ベアトリーチェ様にも、お父様にも」「あなたのお父様じゃありませんことよ?」 機嫌よさそうにニコニコするルチア。いいから、頬の返り血を拭いてちょうだいよ。 さっきまでの、戦いっぷりは幻覚だと思いたいけれど、証拠が目の